どこか変だよ?日本人

明るい日本の未来のために

おらこんな村いやだ~♪ いざ東京 専門学校編

憧れの地東京へ18歳になったばかりの私は

新しい暮らしをスタートしました。

 

レディースには全く興味がなかったので

完全に0からのスタートです。

 

手を動かしたり、ものを作るのは好きだったので

服を縫うのは全然苦じゃなっかたんですが、

いざデザインとなると、何をどうしていいのかさっぱり

自分で着るものじゃないのでなかなかイメージ出来ませんでした。

 

憧れの女性をイメージして、その人に着せたい服を・・・

なんて事もよく聞く話ですが、そんな簡単にはイメージできず

つい奇をてらったような風な発想になってたなぁ~

 

どうせやるなら何か形にしたいということで、

ファッションコンテストに挑戦しました。

 

絵も勉強しました。

何枚もかきました。

 

この学校ってほぼ毎日課題があり、

家に帰ってからも結構忙しいんです。

課題をやっていかないと、

まあまあついていけなくなりますw

大学で言うところの、単位みたいな感じです。

 

でもコンテストは課題以外なので

時間を作ってやらなければできません。

チャレンジする人はあまり多くはありませんでした。

別に賞なんて取ったってまたいな風潮だったと思います。

 

あと、時代はバブル全盛期

街には様々な誘惑があったので、

そちらを楽しむ人も多かったでょう。

 

私といえば、仕送りのみで生活をさせてもらっていたので、

(父から、学業に専念しろという考えのもとです)

そういった遊びは全くしたことが無いんです。

今思えば残念にも思います。

(せめてマハラジャくらい行っときゃよかったw)

 

が、道を外さず、専念出来てよかったとも思ってます。

 

コンテストの話に戻ると、

周りの友達が、ちょいちょい受かりだし、

多少の焦りを感じながらも、いつか受かる事を信じて

コツコツとチャレンジしておりました。

 

ようやく結果が出始めたのが、

3年目のデザイン課に入ってからのこと。

 

ここは刺激的な場所でした。

とてもライバルが多いのですが、

それが心地よい刺激となり、

やっとこさ土台に乗ることが出来ました。

 

チャレンジをはじめて2年、

やっと両親に報告ができるところまで来れたという感じでした。

 

専門学校に入ってから、はじめての成功体験です。

 

しかしデザイン画の審査が通ったあと、

地獄が待っていました。

 

課題と並行してやらなければならないため、

とにかく時間がありません。

しかも自分で絵を書いておきながら、

いざパターンにしてみようと思っても

どうしたらいいかアイディアが浮かんで来ないんです。

 

困っていたのを見かねた、

デザイン課の中でもトップクリエーターだった

Y.Hさんが、こんなふうにしたら面白いんじゃない?

と助言をくれ、ようやく着手できる始末w

 

その後彼は山本耀司さんのブランド

「Ys」に入社するほど、ずば抜けた

抜群のセンスとアイディアを持っている人でした。

 

毎日寝る間を惜しみ、何とか形にできたのがこちら

 

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残念ながら入賞は出来なかったものの、

自信が付いたようで、その後専門学校最後のコンテスト

文化服装学院ファッションコンテスト」のメンズ部門で

3位入賞、松田賞(ニコルの創業者)をダブル受賞しました。

(その時の写真などは残念ながら残ってません)

 

3年かけて積み上げた集大成。

人生初の成功体験を経験し、

とても有意義な学生生活を締めくくる事が出来たのです。

 

お父さん、お母さん

支えてくれてありがとう。

 

と、30年前の私はきちんと伝えたでしょうか?

 

今からでも伝えよう。

「ありがとう」って

 

※次回は社会人編にするかどうか迷ってます。